弁天町地域の栄枯盛衰

まさに弁天町地域は、江戸時代から明治にかけ、隣接の西の心斎橋と呼ばれた、西区の九条地区を追うように、市岡新田が開発され、数多くのブランド野菜などが栽培された。
しかし明治の中期以後は、鉄道ブームからも置き忘れられたように、国鉄は、大阪環状線の東半分、城東線だけで営業し、西九条や桜島まで来ている桜島線も、弁天町には延びなかった。大阪臨港線(貨物のみ)は、港区福崎地区まで延びていたけれど。そして戦後になって、それも「もはや戦後ではない」という言葉が、流行し始める時になって、大阪環状線の西半分が全通し、弁天埠頭もできて、束の間の弁天地区の賑わいが到来する。しかし賑わいは、束の間で消えていく。まさに、栄枯盛衰が激しいのが、弁天町地域なのである。他にも生まれて消えた、様々な試みがあるので、この項では、そのことについて少し書く。
そしてその前に、昭和25年夏に起きた、ジェーン台風の被害について触れる。紀伊水道を北上し、大阪を直撃したこの台風は、多大の高潮被害をもたらし、各河川の地盤沈下と戦後間もない荒地の放置で、被害は拡大した。いわゆるバラック住宅も多かったのだが、大阪の西半分は、それらの住宅が、良くても床下浸水に襲われた。特に港区は、一週間程度、水が引かなかったのである。行政は、この台風被害で、横っ面を張られたように目覚め、戦後の復興事業を加速させ、特に河川岸のかさ上げ工事に力を入れた。そのことで水面より低い地域も生まれた。そして一週間も水の引かなかった港区では、全地域で、2メートル近くの盛土をすると言う大工事を行った。低いところに取り残された古い家は、盛土後の高いところに立て直さねばならず、それは大変な港区の改造であった。